"哲学カフェ"ってどんな場?-参加者20名の語りから-


 

アルコイリスでは、毎回違うテーマについて、それぞれの考えや経験を語り合う場「哲学カフェ」を毎月1度開催しています

 

哲学カフェとは、90年代にフランスではじまった試みで、カフェや公園など市井の中で

誰もがテーマについて考え、語るための場づくりです

日本でも、さまざまな地域で、さまざまなカタチで取り組まれています

 

アルコイリスの哲学カフェはというと、

・テーマごとに参加する方が変わること

・常連さんもいらっしゃいますが、毎回新しく参加する方も多いこと

・10代~70代まで、本当に幅広い世代が参加されること

・難しいことを難しい言葉で難しく考える、のではなく、

それぞれに異なった考え・経験があり、その違いを文字どおり"語り合う"ことに重きをおいていること

 

このあたりが大きな特徴かな、と考えています

 

さて、2016年からはじまった、この集いの場は 2022年4月16日で第50回目を迎えました

 

その節目に選んだテーマは、「考え、語りあうことに意味ってあるの?」

 

この日は、対面参加の方16名と、オンライン参加の方4名の20名

 

哲学カフェが、この場に参加するみなさんにとって、どんな意味があるのか…

端的にいえば、哲学カフェそのものについて、それぞれの考えや経験を語り合いました

 

※文中のFはファシリテーター、Pは参加者 をさします

 


ーどうして"哲学カフェ"に参加するの??

 

F:今日もよろしくお願いします。今日のテーマは「考え、語り合うことの意味ってあるの?」ですが…

1つのテーマについてネチネチと、みなで考えや経験を語る場を、50回も開催しておいてあれですけれど、

正直、毎回これだけ多くの方が参加されるのが、とっても不思議です

みなさんがこのような場に、何を求めて、もしくは何がよくて、参加されるのでしょう?

 

P:率直に言えば、楽しいから

コロナになってテレワークや自宅仕事で一人で過ごす時間が多くなって…

自分で考えたことや経験したことを自分の中だけに置いていても、進展がないですが

考えを伝えることで、他の方からのリアクションがあって、そのリアクションを受けて、また考えられる

 

P:職場や友人関係でもそうですが、なかなかシリアスな話題や内容を、話す場がないから

 

P:私は、けっこうネチネチ気質で…、なんかいろんなことがなぜ?って気になっちゃうんですよね

そのなぜ?を、ふつうのときにふつうに話すと、まわりから引かれてしまうことがあって…

 

P:コロナ禍の中、家で一人で子育てをしていると、なんとなく漠然とした不安や閉塞感を感じています

そうしたときに、別の誰かが同じような思いを感じていたり、同じような経験をしていると知ったり…

それがわかるだけで、「あ、自分だけではないんだ」ってちょっと気持ちが上向きに変わるから…かな

 

P:私はなぜ参加するのか、という理由についてははっきりしていて、「テーマ」です

ピンときたテーマについて、自分以外の方たちが、率直にどう考えているのか、どう感じているのか知りたいからですね

 


ー "真面目に語る"場がないってホント??

 

F:先ほど、真面目な話、シリアスな話題を話す場がない、という意見にたくさんの方がうなづいていらっしゃいましたけれど…

やっぱり、そうした話題って話すことそのものが難しい??

 

P:相手との関係性にもよりますが、暮らしの時間の多くを職場で過ごすので…

たとえば職場の同僚などに、「ウクライナ情勢どう思う?」なんて話はやっぱりできないですね

まぁ、仕事に関係がないっていうのもありますが、白い目で見られるかも?って思うとできないです

 

P:私、以前働いていた職場で、仕事が大変だったときに、

「あー、なんで仕事ってしなきゃいけないんだろう?」

とボソっとつぶやいたとき、周りからドン引きされたことがありました(笑)

みんな歯をくいしばって仕事をしているのに、そこに「なんで?」をつきつけてしまって、

「それを言ってはおしまいよ」ってことなのでしょうけれど、みんなから向けられた視線がきつかった経験があります

 

P:職場以外ではどうかと考えましたが、たとえば昔の同級生たちと真面目に話せるかというと、うーん。。。

だいたい、お互いの仕事の話とか、彼氏・彼女ができたとか、誰々が結婚したとかの近況報告

もしくは同級生だった頃の昔話とか… 

話を"掘り下げていく"ってことがどうにも難しいです

 

P:今回、この集まりに参加する前に、友人のライングループにこんなイベント参加するんだって情報を流したんです

誰か一人くらい興味をもつかな~、って思ったら、全員見事に既読スルーでした(笑)

 

P:ちょっと話がそれるかもしれませんが、子育てをしていたとき、公園デビューってあるじゃないですか

そこで子どもたちが遊ぶ傍ら、ママ友たちも子どもに付き添ってその場にいるんですが…

なんというか何をしゃべってよいのかとか、地雷を踏まないように、とか気をつけてて

なんとなくママ友同士で話さないとならない空気がどうも苦手

毎回、新聞や本を持参しないとその場にいられませんでした

 

 


ー 参加するのに、ハードル高くないの??

 

F:みなさんの話を聞いていて、真面目にシリアスに話せる場が日常にはとても少ない…ということがよくわかりました

とはいえ、運営側として思うのですが、テーマはあるとはいえ、どんな人がこの場に来ているかまず分からないし、どんな話のなりゆきになるかも分からない

誰かの講義を聞いているだけっていうなら聞くだけでよいけれど、この場ってなんとなく発言することもイベントの中に含まれていますよね。強制するつもりはないことはルールでお伝えしていますが。。。

なんというか、みなさん、よく参加されるなって思うんですよ。ハードルとか敷居の高さってないんですか??

 

P:敷居の高さのようなものは、あんまり感じたことがないですね

むしろ逆で、今日はこのテーマについて、とことん自分の考えていることを話していいんだっていうのが、

空気を読んで話題を合わせずにすむというか…だから参加も発言もしやすいなって思います

 

P:自己開示っていうんですかね。先ほどの方がおっしゃったように、自分の考えを自由に発言できるから、自己開示ができる場

 

P:私は別の場所で哲学カフェを運営してますし、かなりいろんな場所の哲学カフェに参加してきましたが…

自己開示と言われると思うところがあって。

その意見を否定するわけではないのですが、

開示された自己というのがあったとして、その自己をいつでも誰かが受け止めてくれるわけではない、ということは言えることだと思います

以前、話が伯仲して、つかみ合いが起きてしまうようなことがあったり、「表出ろ!」なんてのもね

それくらい、一人の人の答えにくそうなところまで突っ込んでいってしまうので…

傷つけられたとか、ケンカになった、なんてことも可能性としては含まれている場だとは思います

 

P:ぼくにとっては、なんというか今の話につながりますが、"殴り合い"のようなものだと思っています

仕事上の役割とか肩書きとか一切抜きにして、この場においては対等で、裸というか抜き身というか、の"殴り合い"。

それでも、意見が違ってもなお、お互いにそんな感じだから、語ってくれた相手の方を凄い愛おしいと思えたりするんです

 

 



ー 聞く場? 話す場? それとも…??

 

F:みなさんの話を聞いていて、こんな質問はどう考えますか? 聞きたいのか? それとも話したいのか? については

 

P:私は断然、聞くことに重きがあります。興味のあるテーマについて、みなさんが考えていることを知りたいから。

だから、聞きたい。

 

P:話すと聞くが半々くらいですが…わたしもどちらかと言えば聞くがちょっと強い…かな

 

P:話すほうに力点があるようにぼくは思います。

冒頭でも話しましたが、コロナ禍とテレワークで人と話す機会がかなり少ないので。

ここで自分の考えを話して、みなさんからリアクションがあって…

それは自分の考えが肯定されたいということよりも、まったく別の考えや意見がもらえるので…

話して、リアクションがあって、ようやく自分が世界の中のどの位置にいるのかがわかってくる

そういう意味では、自分にとって、とても必要な場です

 

P:話しながら、自分の考えを整理する、という側面もあるけれど

話ながら、あ、自分ってこんなキーワードに引っかかるんだとか、こんな意見言えちゃうんだとか…

知らなかった自分に出会える、発見するという喜びがあったりします

 

P:ちょっと前提を覆すようですが、聞く・話すのどちらでもなく、「いる」というのもあるように思います

周りの方が、何を考えていらっしゃるのか、話のなりゆきや流れをずっと聞きながら、強制的に発言を求めらない

ただ、その場に「いられる」というのはとても重要なことのように思います

沈黙も許される…というか。だから、話す・聞く、に「いる」も加えたいですね

 

P:話す・聞く・いる、と出ましたが、ぼくの感覚は「会いにいく」「再会する」って感じです

自分の知らない人や知っている人も含めて、どんな考えや意見を聞けるだろうっていつも楽しみにしています

  


ー 私たちは"考えている"のだろうか??

 

F:いいですね。話す、聞く、いる、会いに行く…それぞれ違ったワードで哲学カフェを表現してくれていますね

考え、語り合う場の意味、それもみなさん一人ひとりにとっての意味をお伝えいただいたわけですが…

こんな質問でよいかわかりませぬが、私たちってこの場で、「考えられているのか?」というのはどう思います?

 

P:むずかしいですね。でも自分の知らなかったことや思いもしなかった意見に触れながら…

なんというか、自分の中の積み木に、新しい積み木が加えられる感覚、でしょうか

新しい積み木が加えられたら、全部ばらして再構築しなおさなきゃいけないから…

それが「考えている」ってことなのじゃないかと

 

P:考えている…と思います。みなさんの話を聞きながら。

でも考えるのを終えて発言しようと思うころには、話題の流れが別の方向に行ってて…それでまた考えて… 

 

P:私は一番考えているのは、この場の最中というよりも、終わったあと

帰りの電車の中とか、布団の中とか、次の日の朝とか…

なんであの人あんなこと言ったんだろう?、自分の考えとどこが違うのだろう?とか、

この会で聞いたいろんな方の言葉を思い出しながら、振り返るとき、考える

 

P:ぼくが思うに、考えるって筋トレみたいなものだと思っていて。

筋肉って傷めつけられて、時間をおいて回復して…で、強化されていくといいますよね。

人の話や考えを聞いて、そんなこと考えたこともなかったという、今までの考え方が崩されるという、ある種の"傷つき"があって…で、自分の考えを再構成する、自分をつくり変える。その作業が考えるということなのだと思います

 

F:今の傷つき、という表現にぼくも近いように思います。

ぼくは、「これまで生きてきてなんでそんなことも知らなかったんだろう」という深い反省や自戒を強いられるようなときがあって。

例えばそれは、ぼくが男性として生きているから、気づきもしなかった異性の生きる苦しみや葛藤に触れたようなとき、が多いように思います。

今日の話で言えば、冒頭でママ友と付き合あわざるを得ないとき、本や新聞片手にしないとその場にいられない…といった話は、思わず考えさせられてしまうんです。

もうちょっと言うならば、ママ友の人間関係が合わない人がいるってことは、うっすら情報として知ってはいたものの、

やはり目の前にいる具体的な誰かが、具体的な経験を、表情や身振りも一緒に伝えてくれる

その経験語りには言いようもない凄みがあります。

こうした話が聞けたとき、大きな発見があったってその場に参加したことの喜びにつながるんです

 

P:こうした場には、"独特の不快感"があって。

自分の考えや意見がすべて全肯定されるわけでもない。

先ほどの傷つきのように、振り返ったり、考えなおしたりしなければならないときもある。

半ば強制的に、考えるための"種"が身体に埋め込まれる、そんな豊かさがあると感じています

 

P:「これまで沈黙していた人たちが"声をあげはじめた"」という表現を耳にされると思うのですが。

被害者の支援やマイノリティの支援の仕事をしていて思うのは、その表現って違うなって。

当事者は、ずっと声をあげ続けているんです

むしろ、長い時間をかけてようやく、聞く側の耳が"変わった"というほうが正しいように思います

耳が変わって、ようやく、声が聞こえるようになった

私は、このような場で、多様な方の考えや経験に触れることが、そうした耳が変わっていくことにつながるのかなと考えています

 

 

F:はい、ありがとうございました。時間がきたのでこれで話し合いを終わりにします。

とくにまとめもしませんし、振り返りもしないのがアルコイリスの哲学カフェです。

本日はおつかれさまでした&ありがとうございました。

拍手!!

 

 


ー 対話を終えて (ふりかえり)

 

冒頭でも伝えましたが、50回も主宰してながらも、ずっと気になっていたことがありまして…

アルコイリスの哲学カフェには、だいたい15名程度、多いときは20名超の方が集まってくださいます。

しかも、固定的な常連ばかりが集まるわけではなく…

いつでも新しい方が、周辺4県またいで遠方からもいらっしゃってくださる

 

正直、見ず知らずの方とテーマについて話すという、なんともハードルの高そうなこのような場に

なぜこんなにも多くの方が興味をもったり参加してくださったりするのか、正直ずっと、"謎"でした(笑)

でも、今回みなさんの話を聞いていて、おぼろげながらも分かったような心持ちがしています

 

おそらく、背後には、真面目に語れる"空間"と"時間"がなかなかないということ。

これは2000年代初頭にぼくも経験した、KY文化(空気を読め)のようなものが今でもあって…

真面目なことを掘り下げるというコミュニケーションの形が、白い目で見られてしまったり、チャカされたりと

どうにも取りづらい状況がある、ということ

 

しかし、日々生きていく中で、なんで?どうして? と頭に?マークがつくようなことは当然あって…

他の人はどういうふうに考えているんだろう? こんな苦しい思いや経験をしているのは私だけなんだろうか…?

 

そうしたときに、

SNSなど見ず知らずの誰かでもなく、芸能人や有名人の失敗/成功譚でもない

目の前で、時と場を同じくして存在する具体的な他者の言葉や声に、触れたくなる

その言葉や声を受けて、もう一度自分の経験や考えを整理したり、根っこから考えなおしてみる

 

そうした一連の作業に、みなさんが意味や価値を見出しているということがよくわかりました

 

 

なにも、このような場があることで、社会が大きく変わるとか、誰かの人生の大きな手助けになるとか、

そんなことを思って開催しているつもりは微塵もありませんが、

 

参加された方たち一人ひとりが、お互いの声に触れながら、

立ち止まって考えなおしたり、もしくはふっと心が軽くなったり…

そんな一助になる可能性があるならば、これからも、その役割を担い続ける価値と意味はあるのではなかろうか

と、運営側として思った次第です

 

ご参加いただいたみなさま、具体的な考えや経験を語ってくださったみなさま、ありがとうございました

 

 


 

※この記録は、当日のメモを頼りに記憶をたどりながら書いています

実際に話された内容と大きく異なってはいないものの

微細な表現や言い回し、また語りのすべてを表現できたわけではありません

おそらく交わされた言葉は文章に表現できた数倍の量だと思います

あしからず

 

文責:川上(アルコイリス)

 



記録・ファシリテーター

◆川上和宏◆

1984年、群馬県生まれ / 大人の秘密基地arcoiris 共同店主

杉並区社会教育センターにて社会教育・生涯学習の企画運営に携わったあと、

2013年にアルコイリスを起業・運営

千葉大学大学院教育学研究科卒、東京学芸大学博士課程満期取得退学

大人向けの哲学対話の場、哲学カフェ@アルコイリス・主宰

その他、この世界について他者と対等に語り合うための場づくりをお店にて実践中